大正8年(1919年)6月25日、若山牧水は予期せぬ友人の来訪を受け、香取・鹿島・霞ヶ浦を巡る小旅行に誘われた。自ら主宰する雑誌の編集で繁忙の極みにあったが、旅をしたいとの本性には逆らえない。徹夜をして何とか仕事を片付け、翌日午後には上野駅を出立する。
紀行文 “水郷めぐり” の始まりだ。
成田駅で40分程待ち時間が有ったので、一行は不動様に参詣した。その時の印象をこう書いている。“此処も私には初めてである。何だか安っぽい玩具のような所だと思いながらまた汽車に乗る。” 牧水は有るが儘の自然を好み、人工的造築物には然程興味を示さなかったが、こうなるとさしもの成田山も形無しである。
佐原に到着した頃には、既に漆黒の闇であった。堀割に面した船宿に泊まり、行〃子(よしきり)の鳴を聞きながら盃を傾けた。
当時、利根川河口には未だ陸橋が架かっていない。対岸の常陸に渡るには汽船を利用するしかない。翌朝、鹿島行きの定期便に乗船し、宿が用意して呉れた弁当と酒を賞でながら、微雨に煙る水辺の景観を愉しんだ。折しも菖蒲(あやめ)の季節だが、それは稀にしか見えず、堤に咲く薊(アザミ)の花だけが目に付いた様だ。
” 雨けぶる 浦をはるけみ ひとつゆく これの小舟に 寄る波聞ゆ ”
豊津の船泊に到着、車を雇い鹿島神宮に参詣した。
ところで牧水の紀行文には、有名寺社や名所旧跡に関する記述が少ない。水郷めぐりも例外ではない。自然の佇まいや人との交わりが好きで、作品では普段着の庶民の日常を肩肘張らずに描いている。下賤な金銭の話や他人への批判も滅多にない。自然体の紀行文だ。それが故に、牧水の作品は愉しめる。
精進落しでもなかろうが、この後一行は舟を雇って潮来に向かう。ここで牧水には珍しい話がある。一行は、M屋と言う引手茶屋に立ち寄った。引手茶屋とは、客を娼家に案内するのを生業とする御茶屋のことである。宴が進み、夜の帳が下りた頃合の描写だ。
“水面を行き交う燕や小舟の姿も見えず、全く闇になった頃名物のあやめ踊りが始まった。十人ばかりの女が真赤な揃いの着物を着て踊るのであるが、これはまたその名にそぐわぬ勇敢無双の踊であった。”
その後何があったかは分からない。紀行文は、“翌朝、雨いよいよ降る” であっさり終わる。