■ 沼津 若山牧水記念館

Print Friendly, PDF & Email

私が沼津に越して来ていつか七年経った。あるいはこのまま此処に居据わることになるかもしれない。沼津に何の取柄があるではないが、ただ一つ私の自慢するものがある。千本松原だ。
若山牧水は晩年、静岡県による財源確保のための沼津千本松の伐採計画に異を唱え、わが国最初のエコロジー運動ともいえる反対活動の先頭に立ったことが有る。その頃に書かれた、沼津千本松原と題する随筆の冒頭部分だ。この運動の効果が有ったかどうか定かではないが、県は当初計画を大幅に縮小せざるを得なかったと言う。これから2年後の昭和3年9月、牧水は44歳の若さで肝硬変のため自宅において永眠する。

牧水が東京から沼津に転居したきっかけは、伊豆土肥温泉からの帰途、沼津で宿泊した折に端なく松原の一隅を見出しそれに心を惹かれてのことであったと随筆に書かれている。沼津に転居の後も、暇を見つけては松原に分け入り逍遥したらしい。就中松林の間に繁茂する櫨・楓・たぶ・犬ゆずりの雑木林と、その中で囀るツグミ・メジロ・キツツキ・シジュウカラの鳴き声が彼のお気に入りであった。

牧水は旅と酒をこよなく愛した歌人だ。”幾山河 越えさりゆかば 寂しさのはてなむ国ぞ けふも旅ゆく”。牧水22歳、未だ早稲田大学の学生であったが、九州日向への帰省の途中に岡山県の二本松峠付近で詠んだ歌と言われている。後に悲恋で終わる園田小枝子との交際が始まった時期で、何がしか感傷的だが一方では前途に洋々たる希望を抱いた、青年期固有の心情がよく表現されている。愚生の個人的好みとしては、沼津で落ち着いた生活を始めた後に書かれた紀行文「静かなる旅をゆきつつ」や「みなかみ紀行」の方が自然体で同調できる。

沼津港から程近い千本松原の中に、若山牧水記念館が建てられている。股引・脚絆に草鞋履き、鳥打帽を被って着物の上から愛用のマントを羽織った、人懐っこい牧水の像が迎えて呉れる。

関連記事: