■ 沼津 松蔭寺白隠禅師

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啓蟄(けいちつ)の節季も程なく終ろうとする3月の連休、待望久しい沼津への小旅行に出かけた。啓蟄とは、土中で冬籠りをしていた虫が春の陽気を感じ穴から這出る様を言う。長期に亙る陰鬱な確定申告業務から解き放たれた窮乏税理士の心境たるや正に啓蟄そのものだ。

伊豆長岡の湯に浸った後、駿河湾に沿って北上し沼津に入る。沼津は此れまで幾度となく訪れているが、そもそもは若山牧水に逢いたいが為だ。先ずは千本松原沿いの牧水記念館に向う。着物の裾を尻まで捲し上げ、歩兵銃の如く蝙蝠傘を左肩に背負った牧水のブロンズ像が迎えて呉れる。ゆったりとした館内で、淡い茶褐色のエスプレッソを嗜みながら好みの作品を探す。関東大震災の前後に、香貫山の麓で家族と過ごした数年が早逝した牧水にとって至福の時期と言われる。その頃詠まれたのが次の歌だ。

「香貫山いただきに来て吾子とあそび ひさしくをれば富士はれにけり」

今回はもう一つ旅の目的があった。東海道五十三次、原宿にある鶴林山松蔭寺への参詣だ。江戸中期、臨済宗中興の祖と讃えられる白隠禅師(慧鶴)が50年近く住職を務めた名刹である。”駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠”と謳われる白隠禅師は、齢84歳まで生きた。73歳にして著したのが彼の「夜船閑話」だ。
“宝暦七年の春、京都の本屋小川何某が従者に手紙を書いて寄越したが曰く、云々” の序文で始まる法話である。自身や弟子の禅病対治の体験を綴ったものだが、心身障害に悩む多くの人々を救済した福音の書として知られる。

白隠禅師にはもう一つ有名な著作がある。「座禅和讃」で、“衆生本来仏なり、水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生の他に仏なし”の一節は、宗派を問わず多くの僧侶の琴線に触れる様で、浄土真宗の法事でも引用されることが多い。
写真は白隠禅師の筆になる達磨図である。

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