■ 京都 平等院鳳凰堂

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京都市のすぐ南側を宇治川が流れ、それを越えると宇治市です。立派な住宅が広がる一帯はかって巨椋池と呼ばれた広大な湿地帯でした。琵琶湖に端を発する瀬田川が宇治川となり、巨椋池に注ぎ込む辺りに平等院が建てられています。古より貴族の別業の地(別荘)として開かれ、歴史的に宗教的色彩の強い土地柄でしたので、別業には数多くの持仏堂が建立されました。平等院は、嵯峨源氏の始祖となった源融(みなもとのとおる)が所有していた別業を、変遷を経て関白藤原道長が入手したものです。道長の嫡男頼道がこれを相続し、還暦を迎えた1052年(末法初年に当る)に発願して寺院に改めました。因みに源融は嵯峨天皇の第12皇子で、臣籍に下った後に左大臣まで昇進した人物で、光源氏のモデルとも言われています。
源氏物語の第三部は、宇治が主な舞台となっているため宇治十帖と呼ばれます。薫と匂宮の愛の板挟みに苦しむ浮舟が宇治川に身を投げますが、運よく通りかかった「横川の何がしかの僧都」の一行に助けられるとの一節があります。道長・頼道父子に浄土教信仰で大きな影響を与えた、往生要集の著者源信こそがこの横川の僧都のモデルと言われています。
往生要集の中に、「厭離穢土 欣求浄土(えんりえど ごんぐじょうど)」と言う言葉があります。徳川家康の旗印として知られています。
先の朝日新聞に、鳳凰堂の本尊である国宝阿弥陀如来坐像が、造仏当初から最高純度の金箔で8枚重ね貼りされていたとの報道がありました。鳳凰堂は亜字池の中島に東向きに建てられ、本尊の頭部の高さには円窓が開けられています。当時は限られた貴族や僧侶しか御堂への立ち入りを許されなかったため、一般民衆も対岸(彼岸)から金色に輝く如来の面相を拝することが出来る様にとの配慮です。坐像は当時京七条にあった定朝の工房から、約10時間かけ宇治に運ばれ、新堂供養されたとの記録が残されています。
御堂内部には、この他に定朝や弟子の制作になる52体の雲中供養菩薩像が存置されていますが、取り分け興味深いのは壁面や扉に描かれた国宝の九品来迎図でしょう。九品来迎図とは、阿弥陀の教えを纏めた感無量寿経典(感無量の語源はここから来ています)を基に、死の淵にある人間がどの様に往生するかを九つのパターンに分け分かり易く描写したものです。この内、最悪の下品下生には、悪行の限りを尽くし当然に地獄の責め苦を負うべき者でも、死の淵で知者の妙法を聞き、極楽往生したいと願い念仏を唱えれば、来迎に向かうと描かれています。後に親鸞が歎異抄で、「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや。」と説いた教えに通じるものがあります。
「この世をば我が世とぞ思ふ望月の、欠けたることもなしと思えば」。道長53才のおり、娘威子の立后の祝いで、取り巻きにせがまれ即興で詠んだ歌です。流石に自慢たらしいと思ったのか、御堂関白記にこの歌を記載していません。道長ですが、死の近いことを悟って、自ら創建した法成寺の阿弥陀堂に移り、北枕で西向きに伏せて、阿弥陀如来像から伸びた糸を握り往生したと伝えられています。 

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