啓蟄(けいちつ)には少し早いが、フライング気味に体内の温泉虫が蠢き出す。確定申告の最中なので後のしわ寄せも気になるが、何とかなるだろうとの根拠がない楽観主義で日光・鬼怒川を目指す。予報では山沿いで降雪の可能性があるそうだが、温泉に浸かるにはお誂えの気候だ。
日光東照宮は平成の大修理で、本殿や陽明門は未だ工事中だが全体の八割方は竣工している。贅を尽くした建造物や外壁彫刻に圧倒されるが、権力者が財力を誇示する傍ら庶民の貧しい暮らし振りを思うと釈然とせぬでもない。難しいことは兎も角、人混みに揉まれて鳴き龍・三猿・眠り猫と言ったお宝を見物する。
対照的に歴史的建造物を見せるのみならず、客を非日常世界に引き込み楽しませるのが日光江戸村だ。多少誂えが清潔すぎる嫌いはあるが、遥か往時の市井の暮らしを体現出来る。長屋・吉原・水芸その他の見世物も然るべく工夫され客を飽きさせない。特にお捻り遊びが良い。観光事業の要諦を心得ている様で、業績も先ず々の由にてご同慶の至りである。
鬼怒川温泉は渓谷沿いに在る古くからの温泉街である。下野街道を北上すると大内宿を経て会津若松に到る。あさやホテルは、高層建築を貫く吹き抜けホールと屋上の庭園露天風呂で知られる大型の湯宿だ。
到着するや直ちに露天風呂に向う。2月末屋上に吹く川風は冷たく、浴槽まで10メートル足らずの距離だが素っ裸の身には明治の八甲田山雪中行軍に等しい。何とか堪えて湯船に浸かるや、一転して極楽浄土と化す。血圧管理に良かろう筈もないが、これが冬の露天風呂の醍醐味だ。鬼怒川下りの船を模した細長い木製の浴槽が一際目を惹く。やや温めの湯だが、小職が如き長風呂好きには持って来いだ。血行が良くなるに連れ来し方の諸々が思い出される。父母と兄は既に鬼籍に入って居り、自分だけが温泉に浸かっているのも何か申し訳がない気がする。今年の夏は久し振りに高松に帰省して墓参りでもするか。
渓谷の夕方は気温の低下が早い。正面には残雪を被った高原山系の山並みが見える。確かあの右奥は那須塩原だ。浴槽の周囲では、白セキレイが庭園の餌を啄みながらチュンチュンと囀る。スズメ科の鳥だが人怖じせず、白い腹を見せながら軽快に宙を舞う。そろそろお楽しみのバイキングタイムだ。遅くなると嫁にお小言を頂戴するので、名残り惜しいが出るとしよう。