■ 茨城 古河歴史博物館

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台風一過の青空、急に思い立ち北関東の古河へと車を走らせました。
渡良瀬川と利根川が合流する辺り、古より水陸交通の要所として栄えた古河は、万葉集にも許我の渡り(こがのわたり)として登場します。日本史を受験された方は、5代鎌倉公方の足利成氏が、幕府と対立して下総に移り、古河公方と称された史実をご存知でしょう。古河の城下町としての生い立ちは、ここから始まります。

江戸時代には、軍事の要衝として有力譜代大名が次々に配置されました。特に土居家11代藩主利位は、天保の改革で水野忠邦が失脚した後の困難な時期に、老中首座として幕政改革に尽力します。
これを家老として補佐したのが、鷹見泉石でした。優れた政治家であり蘭学者でもあった泉石は、国内外の情勢分析が適格で、早くから開国と富国強兵の必要性を説きます。それでも尊王攘夷と言う時代の潮流を変えることは出来ず、彼の死後10年余にして徳川幕府は滅亡します。
古河の中心部にある出城と言われるエリアには、歴史博物館や文学館、篆刻美術館などの文化施設が集まっていますが、中でも歴史博物館には泉石が収集した幕末の貴重な資料が展示されており見応えがあります。

ところで、皆様方の多くが鷹見泉石の顔をご存じの筈です。国宝に指定された絵画で、最も新しく作成されたもの。それは、蛮社の獄で自刃した田原藩家老の渡辺崋山が描いた、「鷹見泉石像」です。上野の東京国立博物館が所蔵しています。

大正時代の有名な絵雑誌、“コドモノクニ”の出版元である東京社の創業者は鷹見久太郎ですが、泉石のひ孫に当ります。彼の生家であり、また泉石が晩年を送った建物が、歴史博物館の側に移築されています。写真でお分かりの通り、中々風情のある佇まいでした。

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