弘法大師空海

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5月中旬の高野山です。標高800mにある霊場とはいえ、季節外れの寒さに震えました。写真は昭和12年に再建された根本大塔で、御堂内部には胎蔵界大日如来と金剛界四仏などが安置されています。
私の故郷香川では、空海出生の地と言うこともあって真言宗徒が多いのですが、彼らは親しみと畏敬の念を込め弘法大師さんと呼びます。空海に関しては、全国各地に空海伝説と呼ばれる様々な異説・秘話が伝承されています。明州の海岸より投げた三鈷杵が高野山に落ちたとか、室戸崎の断崖で求聞持法の最中に明けの明星が口中に入った等の誇張された超人伝説もありますが、多くは衆生救済の為に行った灌漑や土木、寺社造営などに纏わる話です。哲学・語学等以外に建築の知識もあった様で大変な才能の持ち主です。
前回のコラムで、最澄と空海の理趣釈経の貸与を巡る決別の話を簡単にしました。理趣釈経とは、密教経典の一つである理趣経の解説本ですが、全17章に亙って、自性清浄の人間の営みとしての男女交合が肯定的に書かれています。理趣経では、人間の欲望を否定するのではなく、大欲を持ち衆生のために生死を尽くすまで生きることが大切と説いているのですが、男女の交合そのものが即身成仏に繋がると言った短絡的な解釈がなされることがあります。空海はこれを懸念したとも言われています。現に鎌倉時代には、理趣経を根本とした真言流派が邪教として弾圧された歴史があります。
最澄は空海から灌頂を受け密教の教えを乞うた訳ですが、実際には自ら空海のもとに赴くことはなく、弟子に密教経典を写経させ眼から理解しょうとしました。密教の奥旨は文を尊ぶのではなく、心を以て心を伝えるにあると説く空海には、これが許せなかった様です。最澄の借覧申し入れに対し書面にて、「天台・真言両宗の調和を図る最澄と、天台・華厳等諸宗上に真言を置く自己とでは宗教観が明らかに異なり、その間には超えることのできない溝が有る」旨を告げて拒否しています。この事実は、「叡山澄法師の理趣釈経を求むるに答ふる書一首」と題する空海書状として残っています。このほか、最澄が信頼を寄せていた弟子の泰範が離反して空海に帰依したことも関係しているとの 説もありますが些末な話でしょう。
決別の本質は、最澄の指向するところが天台教学の確立にあり、その補完目的で空海が持ち帰った密教経典や受法を会得しようとしたことに起因しているとの学説が有力です。 帰国後長い雌伏期間を経て、嵯峨天皇の御代となり漸く朝廷から入京の許しが出て密教伝布活動が出来る様になった訳です。正統受法者を自負する空海にとっては、このタイミングでこうした最澄の思惑が到底許せなかったのでしょう。最澄と空海、夫々の都合が上手く合致している間は交友が生まれ、相反すれば決別に至る。偉大な宗教家でも凡夫でも、人の性には大なり小なり似通った所が有るものの様です。

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