最澄と空海の決別

Print Friendly

最澄は天台宗、空海は真言宗の祖師です。共に平安初期の804年、留学僧として遣唐使船で唐に渡り、最澄は主に天台を、空海は専ら 密教を学びました。入唐後間もなく、最澄は龍興寺で順曉から三部灌頂を受けていますが、密教の会得としては不完全なものだった様で、これが帰国後に種々不都合を齎します。対して空海は、諸寺周遊の後に青龍寺で真言八祖と言われる恵果から、外国僧としては異例の五部灌頂を受けています。恵果は空海を迎えるに当たり、”我先に汝が来たらんことを知り、相待つこと久し”と言って喜歓したと伝えられています。密教受法には語学能力が必須ですが、既に空海は梵漢無差の水準に達しており、短期間の内に五部灌頂を伝授されたのみならず、梵字真言までも習得しています。余命少ないことを悟っていた恵果は、曼荼羅図や密教経論を与えて、一刻も早い帰国と日本での布教を促しています。
一年半ほど早く帰国した最澄が持ち帰った密教は脚光を浴び、時の桓武天皇は怨霊退治に高尾山に灌頂壇を設けるなど大いにこれを庇護しました。対して空海は、帰国後も直ぐには入京を許されず大宰府に留め置かれたままで、漸く3年後に嵯峨天皇の勅許により入京を許されています。これには、最澄の口添えが有ったとか諸説あります。旧勢力たる南都六宗に伍して、後には2名の年度分者の配分枠も獲得した天台宗ですが、桓武天皇の死後次第に影響力後退を余儀なくされます。そもそも最澄が志向した天台宗の根幹は、天台教学のほかに禅、戒律、密教を統合したものですが、尤も欠けていたのが当時の最先端技術とも言える密教の経典や法具でした。これを補う為には空海が持ち帰った経論疏章などが不可欠と考えた最澄は、自ら進んで年下の空海の弟子となり、灌頂を受け、また大日経など経典の借覧も行うようになります。これが後の理趣経の貸与拒否に繋がります。
空海の密教に関する知識や能力を最も良く理解して彼を支えたのが最澄であり、一方世間的認知がなく布教基盤を持たぬ空海にとってエリート官僚たる最澄の存在は無視できぬもので、こうした良好な関係が数年間続きます。この続きは次回に。

関連記事: